銀輪日報

本と自転車旅とB級グルメ

神君伊賀越えをゆく

八町二重七曲といわれる険しい鈴鹿峠(378m)の営業開始は平安時代の人和2年(886年)だ。たかが378mと高をくくっていたがその急勾配はさすが難所と言われるだけある。そういえば新幹線とか東海道本線東海道といいながら関ケ原中山道経由なんだな。その理由がわかったよ。昔はあるきだから勾配はなんとかなるので最短距離で道筋をつけていたんだね。僕はゼイゼイいいながら道端に設置された由緒書を眺め少し感動した。わお。千数百年前も同じ道を人々は歩いていたんだ。すげえな。柔らかな木漏れ日が降り注ぐ旧道は急勾配でチャリを押し歩くところどころ階段だがマウンテンバイカーにとっては朝飯前よとクソ重たいクロモリフレームのクロスバイクを担ぎボリボリと未舗装の山道を踏みしめる。余裕だぜ。なんか鎌倉の朝比奈切通しと似たような雰囲気だ。いやーいい場所。来てみてよかったよ。このエリアは山賊が出没し東海道では箱根と並ぶ難所と言われた。これで箱根・薩埵峠・鈴鹿峠の難所三点セットは攻略だ。薩埵峠が一番美しい。また行こう

 

 

滋賀県側な緩やかな峠で国道1号線に戻りガーッて一気にくだる。楽ちん。直感を頼りに旧東海道をなぞる。途中で気づいたが旧街道沿いは路面が土気色に舗装されている。地味にありがたいサービスだ。ハンドルバーのGPSを取っぱらってデジタルデトックスを始めて約一年。コツが分かってきたよ。街道筋は1.5~2車線。センターラインがない場合ば多い、人工的な直線ではなくたいてい、すこし右に左に蛇行しながら進む。そして街道筋にそって格子戸の民家が立ち並んでいる。そんな感じの道を見つけたらたいていなんとか街道だ。ただ村を離れ田んぼとか農業エリアに出てしまうと直線的な農道に整備されてしまっていることが多い。まぁ、生産効率とか考えると仕方ないよね。土地の買収もしやすく整備しやすそうだしね。

東海道53次の49、50番目土山宿・水口宿をチャリでかるーくながす。宿場町はだいたいわかってきたね。エグゼクティブスイートの本陣。デラックスルームの脇本陣。このへんは大名とかのおエライサンがお泊りになる宿泊施設だ。庶民向けには旅籠、ここは売春宿と賭博場も兼ねているその地域の娯楽施設も兼ねている。ま、江戸時代のラスベガス。あとは飲食店の茶屋、流通業の問屋。通信業を担う伝馬と掲示板の高札場があるかんじだね。現在はだいたい本陣に300円くらい払って見学。後は民俗資料館によってその土地の文化風俗を知る。茶屋でそばでも食ってお土産買うというのが定番だ

そして水口城址によってみた。なかなかの映えスポットだがそこしかない。本丸は高校の運動場で高校生がわんさか練習していた。写真を撮って終わりとした。なんか、ふーん。で終わってしまった

 

11時の開店ぴったりにグーグルマップで目星をつけておいた『らーめん亭日向』に入店。僕が一番の客。券売機でおすすめの醤油鶏ガララーメン大盛りを注文した。店員さんがオオキニ。と挨拶してくれる。おお、滋賀はオオキニ経済圏なんだ。なんか旅してる感あるよね。提供されたラーメンは非常に丁寧に盛りつけされて美味しそうだ。あっさりしていてオイシー。ゆっくり味わい塩分、水分、糖質を補給しカーボローディング完了!今日は残り50キロくらいだからラーメン一杯でやめておいた。食後にインスタントコーヒーといちごミルクを頂き充電完了80%。非常に気の利いた店でございました。俺様専用ミシュランガイドに星5つ刻んでおいた

 

 


次のお楽しみポイント甲賀(こうか)の甲南情報交流センター・忍の里プララへよってみる。立派なハコモノにスカスカのコンテンツでハズレ。なんかプロジェクションマッピングとかパネル展示とか薄味で味気なさすぎ、10分。その近くにある甲賀流忍術屋敷はホンモノらしくなかなか興味深い。600円の入場料を支払い10分程度の映像を見せられる。なかなかの出来だ。そしてなんかどんでん返しとか落とし穴、中二階や隠し階段、縄梯子など意匠を凝らした仕掛けがある。当時の人達の平均身長155cmなのでチッさ。オレは途中で詰まってしまい中二階の見学は諦めた。アカン、忍者にはなれない。つうか、これ実用的なの?話題作りのための仕掛けという気がしたよ。脱出口を確保しようが敵を防ぐ仕掛けを施そうがお前んちに潜入されている時点でセキュリティガバガバそんなんでいいの?そして6投で300円の手裏剣投げを試してみる。思ったより難しいがコンっつって刺さると気持ちいいぜ。いやーいいね、小一時間楽しんで出発。

 


甲賀里山風景を巡る小路をすすむ。大型車は通行困難で通る車はほぼなく俺様専用。天気もいいし、暑くも寒くもない心地よいおひさまのもとパーミルオーダーのこれって廃線跡?って思えるような優しい山路。サイコーじゃん。

 

 

御斎峠570m(おとぎとうげ)は、1582年明智光秀軍がクーデターに成功。織田信長を暗殺。旧政権側で大阪・堺出張中の徳川家康が本拠地岡崎に命からがら逃げ帰りに成功した神君伊賀越え。逃走経路らしい人里離れた閑静な山道だ。展望台からの伊賀盆地がきれいに見えるなかなかの展望スポットだ。遠く見下ろしたところにある伊賀上野城が今日の最後のお楽しみ。峠をガーッておりたけど対向車があり結構慎重におりるひつようあり意外と疲れる。神奈川のヒルクライムの聖地、ヤビツ峠を思い出した

上野公園について見ると16時を廻ったところ。あんま時間ねえな。とりあえず伊賀流忍者博物館へ。800円。コンテンツは移設された忍者屋敷で甲賀とほぼ同じ、併設されている忍者伝承館は勉強になってよってみてよかったと思えた。折角だから伊賀上野城も行こうと思ったけどもうすぐ営業時間終わりだって。まぁ、いいや。結局誰が城主だったかもわからずそんなテキトーなことでいいのか?とおもったけど伊賀上野駅へ向かった。次の電車はいつかな?と確認すると16:54、腕時計を見ると16:48。次の電車は1時間後。ソッコーチャリをバラしてリンコーバッグに詰め込んでチャリ抱えて架線橋を猛ダッシュでわたりぎりチョンセーフ。やればできる子だね

 

ワンマン運行の非電化の関西本線亀山行に揺られ、今日学んだ忍者の歴史を振り返った。紀元前2300年前黄帝の時代に用間(諜報員)に始まるとされる。歴史的名著、「孫子」にも用間の記述がされ、日本では聖徳太子が始めて諜報員として採用した。伊賀甲賀は、東国との交通の要所としてヒト・モノ・情報の流通拠点となった。その山がちの地形から統一領主が生まれず、旅芸人、博打打ち、落ち武者、遊女などちょっと社会からはみ出している浮浪民・下層階級をまとめた反政府勢力、「悪党」が跋扈し守護や地頭に抵抗した。そしてフランス革命の200年前には悪党の集団的自治共和制を確立した。その悪党は武芸を磨き、忍者としての業務内容は、情報収集、後方撹乱、破壊工作、要人警護、暗殺など非正規戦のスペシャリスト集団としての名声を高めた。そしてあちこちの戦国大名に雇われ各地で活躍した。地元では伊賀惣国一揆を組織し織田信長へ徹底抗戦。すなわち天正伊賀の乱だ。3500対50000の戦闘で壊滅。非戦闘員も虐殺対象となり9万人の人口の内3万人が殺害された。その翌年、本能寺の変織田信長はこの世を去る。盟友の徳川家康も当然暗殺リストに記載されるがたまたま家康の家臣、服部半蔵が伊賀の出身のため金銭をばらまき買収工作を行い、逃避行を成功させた。徳川家康服部半蔵を重用し、江戸城の西に屋敷を与えそこに一番近い門を半蔵門とよんだ。有事の際は半蔵門から脱出し、甲州街道から山梨へ亡命するというBCPを運用した。江戸時代に入り平和な世の中になると仕事自体がすくなくなり困窮した、農民となったり薬屋に業態をかえ忍者は衰退していった

 

現在では東京・赤坂にニンジャレストランを構えている。忍者屋敷のようにギミックに溢れたインスタ映えする店内で敵性語を流暢に操り手品で南蛮人を楽しませる。ほっとけばいいので楽ちん。多国籍軍を率い定番のはとバスで皇居、浅草、隅田川観光をこなしたあとのシメにピッタリのエンターテイメントだ。オレも実はニンジャを使いこなし任務を遂行していくというなかなかの切れ者だということに気づいた

 

 

 

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